2008年01月27日
マスター波瀾万丈
(「中の町の中・12月号」より)
ぼんくらや
金城 泰弘さん(42)
うちに来たお客さまは
楽しさでおなかいっぱいにして帰したい。

「アタシのことはマスターじゃなくてママって呼んで!」と
明るく笑うのは知る人ぞ知る中の町の有名人、
「オカマのひーろー」こと金城泰弘さん。
ひーろーさん、物心付いた頃から男の子が好き、
そして綺麗な物が大好きだった。細かいところにも気が付き、
成長するにつれ仕草も女性らしくなっていった。
そんな彼に偏見の目を向ける人々もいたが、
「自分は自分の生き方しかできない」と開き直り、
このキャラを前面に打ち出しお店を経営している。
ひーろーさんが水商売の世界に興味を持ったのは
父親が那覇でやっていた飲食店を手伝ったのがきっかけ。
そこで接客業の楽しさを知った。
高校卒業後、一度はブティックに就職し2年ほど勤めたが、
それ以後は水商売一筋で生きてきた。
「初めての人はおっかなびっくり話したりするけど、
一度うち解けたらこんな風にざっくばらんな性格だから
肩肘はらずにリラックスして楽しめるでしょ?」と話すように、
ひーろーさん、おしゃべり上手で相手を飽きさせない。
「来たお客さんを楽しさでおなか一杯にして帰すことがアタシの目標なの」と
小首をかしげながら笑顔をみせてくれた。
「ぼんくらや」が今の場所(タイヘイ薬局通りリバースの隣)に
店を構えたのは今から3年前。
黒を基調とした上品で落ち着いた店内は
隅々まで徹底的に掃除が行き届いていてとても居心地が良い。
毎日手作りのおつまみを作るなど、
どうやったらお客様に喜んでもらえるか、楽しんでもらえるかに心を砕いている。
店名の由来を尋ねてみると、
「新宿に同じ名前の店があってそこからのれんわけしてもらいました。
『発散しよう』、『楽しくやろう』っていう意味がこめられた名前。
今でも東京から遊びに来てくれます。素敵なお友達です」と教えてくれた。
ぼんくらやのお客さんは男性・女性ともに半々くらい。
男の気持ちも女の気持ちも分かるひーろーさんの人間的な魅力に惹かれ、
彼とのおしゃべりを楽しみたくてみんな遊びにきているという。
「でもアタシも男に戻る時があるの。
それは酔っぱらって暴れたり絡んだりする人が来た時。
他のお客様に迷惑をかけそうになったら
ドスのきいた声で『出て行け』と追い返します。
アタシのお店で楽しくない思いは絶対にさせたくない」と
普段と異なる厳しい表情を見せた。
「ここはゲイバーやホモバーじゃなくて普通の飲み屋。
なので皆さん、気楽に遊びに来てくださいね」。
営業時間は夜9時からはおひげが伸びるまで。
「アタシはこの商売が好き。中の町が大好き。
ここに骨を埋めるつもりで頑張ります」と話す
おしゃべり上手で聞き上手なひーろーさん。
気の利いた会話を楽しみに皆さんもお店を訪れてみてください。
ぼんくらや
金城 泰弘さん(42)
うちに来たお客さまは
楽しさでおなかいっぱいにして帰したい。

「アタシのことはマスターじゃなくてママって呼んで!」と
明るく笑うのは知る人ぞ知る中の町の有名人、
「オカマのひーろー」こと金城泰弘さん。
ひーろーさん、物心付いた頃から男の子が好き、
そして綺麗な物が大好きだった。細かいところにも気が付き、
成長するにつれ仕草も女性らしくなっていった。
そんな彼に偏見の目を向ける人々もいたが、
「自分は自分の生き方しかできない」と開き直り、
このキャラを前面に打ち出しお店を経営している。
ひーろーさんが水商売の世界に興味を持ったのは
父親が那覇でやっていた飲食店を手伝ったのがきっかけ。
そこで接客業の楽しさを知った。
高校卒業後、一度はブティックに就職し2年ほど勤めたが、
それ以後は水商売一筋で生きてきた。
「初めての人はおっかなびっくり話したりするけど、
一度うち解けたらこんな風にざっくばらんな性格だから
肩肘はらずにリラックスして楽しめるでしょ?」と話すように、
ひーろーさん、おしゃべり上手で相手を飽きさせない。
「来たお客さんを楽しさでおなか一杯にして帰すことがアタシの目標なの」と
小首をかしげながら笑顔をみせてくれた。
「ぼんくらや」が今の場所(タイヘイ薬局通りリバースの隣)に
店を構えたのは今から3年前。
黒を基調とした上品で落ち着いた店内は
隅々まで徹底的に掃除が行き届いていてとても居心地が良い。
毎日手作りのおつまみを作るなど、
どうやったらお客様に喜んでもらえるか、楽しんでもらえるかに心を砕いている。
店名の由来を尋ねてみると、
「新宿に同じ名前の店があってそこからのれんわけしてもらいました。
『発散しよう』、『楽しくやろう』っていう意味がこめられた名前。
今でも東京から遊びに来てくれます。素敵なお友達です」と教えてくれた。
ぼんくらやのお客さんは男性・女性ともに半々くらい。
男の気持ちも女の気持ちも分かるひーろーさんの人間的な魅力に惹かれ、
彼とのおしゃべりを楽しみたくてみんな遊びにきているという。
「でもアタシも男に戻る時があるの。
それは酔っぱらって暴れたり絡んだりする人が来た時。
他のお客様に迷惑をかけそうになったら
ドスのきいた声で『出て行け』と追い返します。
アタシのお店で楽しくない思いは絶対にさせたくない」と
普段と異なる厳しい表情を見せた。
「ここはゲイバーやホモバーじゃなくて普通の飲み屋。
なので皆さん、気楽に遊びに来てくださいね」。
営業時間は夜9時からはおひげが伸びるまで。
「アタシはこの商売が好き。中の町が大好き。
ここに骨を埋めるつもりで頑張ります」と話す
おしゃべり上手で聞き上手なひーろーさん。
気の利いた会話を楽しみに皆さんもお店を訪れてみてください。
2007年12月10日
マスター波瀾万丈 Vol.5
(「中の町の中・11月号」より)
串焼きバーリー李
ケニー・リーさん(39)
僕にとってこの商売は
接客業じゃなく『友達業』
香港出身の父と沖縄出身の母との間に生まれたケニーさん、
沖縄市山里で生まれ育った。高校はキングスクールを卒業。
十八の夏休みに露天業のバイトをしたことが
この道に入ったきっかけという。
その後、持ち前の英語力を活かして、リド、
満座ビーチホテルの中のディスコ、ミスティ、プレイヤーズ、
チャーリー、タラサBOB‘S CAFEなどの店長経験を経て、
現在の場所(AUショップの真後ろ、リバースの隣)に
「串焼きBAR・李」を二〇〇五年一月にオープンさせた。
店は赤と黄色をテーマカラーにした華やかな雰囲気。
天井には竜が、壁には虎が飾られているアジアンテイストたっぷりのお店だ。
色彩の使い方が大胆かつ繊細、
店内は色彩に溢れているのに落ち着いた雰囲気を醸し出している。
マスターのセンスの良さだろう。
いろんな店の店長を歴任している間も、祭りともなると露天を出し、
串焼きを焼き続けてきた。
「祭りの雰囲気が大好きで、今でもどこかで祭りがあると出店しています。
自分で店を出すのならカクテルに合う串焼きの店を、と決めていました。
僕の串焼きは祭りのお客さんに鍛えられた味なんです」と話す。
店の自慢の一品は『チャーシューの串焼き』。
チャーシューというとラーメンの具を思い浮かべる人も多いだろうが、
あっちはあくまで『煮豚』、本当のチャーシューは焼いた豚。
肉をタレに漬け込んで作るチャーシューは焼くとすぐ焦げてしまうので
串焼きにするのがとても難しい。
それをいつでも美味しい状態で出すために長い時間をかけて
様々な工夫を凝らし納得の一品を作り上げた。
「作り方は企業秘密です。美味しいでしょう?」とケニーさん、
勧められるままに食べてみた。なるほど柔らかでジューシー、
深い味わいのある一品だ。
店に来るお客さんの殆どが注文するという人気メニューだという。
ケニーさん、実は帰化しており、日本名も持っている。
しかし、通り名は両親のつけてくれた「ケニー・リー」という名前を
ずっと使い続けている。「両親ともにすでに他界してしまいましたが、
外国からやってきて頑張ってきた父、その名前をどこかに残しておきたいと、
店に『李』という名前をつけました」とケニーさんは話す。
店名も、こだわり抜いたアジアンテイストの店の雰囲気作りも
自分のルーツへの誇りからだ。
お客さんとお話をするのが一番楽しいというケニーさん
「僕にとってお店は接客業ではなくて『友達業』、毎日楽しく営業しています。
まだ若いけど、経験は長いのでバブル時代の中の町もよく知っています。
小さい頃から見てきた中の町が元気がなくなっていくのを見るのは歯がゆい。
何とか盛り上げていきたい」と話してくれた。
色彩溢れる店内で、露天業で鍛え上げた自慢の串焼きをつまみに
美味しいカクテルを是非味わってください。

TEL 933-5460
串焼きバーリー李
ケニー・リーさん(39)
僕にとってこの商売は
接客業じゃなく『友達業』
香港出身の父と沖縄出身の母との間に生まれたケニーさん、
沖縄市山里で生まれ育った。高校はキングスクールを卒業。
十八の夏休みに露天業のバイトをしたことが
この道に入ったきっかけという。
その後、持ち前の英語力を活かして、リド、
満座ビーチホテルの中のディスコ、ミスティ、プレイヤーズ、
チャーリー、タラサBOB‘S CAFEなどの店長経験を経て、
現在の場所(AUショップの真後ろ、リバースの隣)に
「串焼きBAR・李」を二〇〇五年一月にオープンさせた。
店は赤と黄色をテーマカラーにした華やかな雰囲気。
天井には竜が、壁には虎が飾られているアジアンテイストたっぷりのお店だ。
色彩の使い方が大胆かつ繊細、
店内は色彩に溢れているのに落ち着いた雰囲気を醸し出している。
マスターのセンスの良さだろう。
いろんな店の店長を歴任している間も、祭りともなると露天を出し、
串焼きを焼き続けてきた。
「祭りの雰囲気が大好きで、今でもどこかで祭りがあると出店しています。
自分で店を出すのならカクテルに合う串焼きの店を、と決めていました。
僕の串焼きは祭りのお客さんに鍛えられた味なんです」と話す。
店の自慢の一品は『チャーシューの串焼き』。
チャーシューというとラーメンの具を思い浮かべる人も多いだろうが、
あっちはあくまで『煮豚』、本当のチャーシューは焼いた豚。
肉をタレに漬け込んで作るチャーシューは焼くとすぐ焦げてしまうので
串焼きにするのがとても難しい。
それをいつでも美味しい状態で出すために長い時間をかけて
様々な工夫を凝らし納得の一品を作り上げた。
「作り方は企業秘密です。美味しいでしょう?」とケニーさん、
勧められるままに食べてみた。なるほど柔らかでジューシー、
深い味わいのある一品だ。
店に来るお客さんの殆どが注文するという人気メニューだという。
ケニーさん、実は帰化しており、日本名も持っている。
しかし、通り名は両親のつけてくれた「ケニー・リー」という名前を
ずっと使い続けている。「両親ともにすでに他界してしまいましたが、
外国からやってきて頑張ってきた父、その名前をどこかに残しておきたいと、
店に『李』という名前をつけました」とケニーさんは話す。
店名も、こだわり抜いたアジアンテイストの店の雰囲気作りも
自分のルーツへの誇りからだ。
お客さんとお話をするのが一番楽しいというケニーさん
「僕にとってお店は接客業ではなくて『友達業』、毎日楽しく営業しています。
まだ若いけど、経験は長いのでバブル時代の中の町もよく知っています。
小さい頃から見てきた中の町が元気がなくなっていくのを見るのは歯がゆい。
何とか盛り上げていきたい」と話してくれた。
色彩溢れる店内で、露天業で鍛え上げた自慢の串焼きをつまみに
美味しいカクテルを是非味わってください。

TEL 933-5460
2007年11月13日
マスター波瀾万丈 VOL.4
(「中の町の中・10月号」より)
カラオケライブハウス・酔ing
宮城 隼人さん(50)
「今は詩画書に夢中。みんなにエールを送りたい」

かつて嘉手納町にあった伝説のライブ喫茶
「HAYATO10(ハヤトット)」を覚えている人は多いだろう。
黄色のワーゲンがあたかも突き刺さってしまったかのような
意表をついたエントランス。
店内に入ると手作りの斬新なデザインの家具や内装。
使われている食器等も含めて細部にまでこだわりぬいたお店だった。
中二階のフロアがあり、ライブともなると入りきれないほどの人で賑わった。
店がオープンするやananやnon-noなどのメジャー紙をはじめ
あらゆるメディアに取り上げられ、
多くのアイドルがグラビアの撮影に訪れたほどの人気店だった。
それが今から二十七年前である。
「高校時代から店を出そうと考えていました。
工業高校のインテリア科出身だったから自分でこだわり抜いたデザインで、
名前はこれでって。」と隼人さん。
隼人さんの快進撃はさらに続く。
二十六歳の時にはコザに進出、諸見百軒通りにH2O(WATER job)をオープンさせた。
デザインに優れたお洒落なお店でこれまた若者の心をわしづかみに。
当時の沖縄にはまだほとんどなかった会員カードを導入、様々な特典をつけた。
H2Oのカードを持つのが若者のステータスになった。
「当時の僕はたまたま沖縄に住んでいるだけの宇宙人(笑)って思っていました。
アイデアが次から次へと浮かんでどんどん実行していました。
コザに出てきたのは、僕はコザが大好きだったから。遊ぶのなら絶対コザ!
だからコザで商売したかったんです。」と話す。
そんな隼人さんが中の町・信金通りに「酔ing」を構えたのは四年前。
以前から夢だった、自分で演奏でき、
お客さんとゆっくり話す空間を作りたかったためだ。
ギターを手に毎晩大好きなフォークを熱唱している。
「人と話すのが大好きですね。この商売をずっと続けていたので、
人間の喜怒哀楽を間近で見てきました。
落ち込んでいるお客さんがいたら励ましたいし、
すべてのお客さんにエールを送りたい」と話す。とにかく人間が大好きなのだ。
そんな隼人さん、一年前から本格的に詩画書を始めた。
詩と絵と書が一体となったものだ。隼人さんの詩画書は
今店内の壁いっぱいに飾られている。
どれも心に小さな灯がともるような「人生の応援歌」のような言葉と絵。
実はこの詩画書、中の町の数多く(ほとんどかも)の店舗に飾られている。
酔ingで心にしみる歌声を聞いてもらうのももちろんお薦めだが、
宇宙人から人間に戻った隼人さんの
隠れた名言・名画を求めて中の町を彷徨うのもこれまた一興だ
カラオケライブハウス・酔ing
宮城 隼人さん(50)
「今は詩画書に夢中。みんなにエールを送りたい」

かつて嘉手納町にあった伝説のライブ喫茶
「HAYATO10(ハヤトット)」を覚えている人は多いだろう。
黄色のワーゲンがあたかも突き刺さってしまったかのような
意表をついたエントランス。
店内に入ると手作りの斬新なデザインの家具や内装。
使われている食器等も含めて細部にまでこだわりぬいたお店だった。
中二階のフロアがあり、ライブともなると入りきれないほどの人で賑わった。
店がオープンするやananやnon-noなどのメジャー紙をはじめ
あらゆるメディアに取り上げられ、
多くのアイドルがグラビアの撮影に訪れたほどの人気店だった。
それが今から二十七年前である。
「高校時代から店を出そうと考えていました。
工業高校のインテリア科出身だったから自分でこだわり抜いたデザインで、
名前はこれでって。」と隼人さん。
隼人さんの快進撃はさらに続く。
二十六歳の時にはコザに進出、諸見百軒通りにH2O(WATER job)をオープンさせた。
デザインに優れたお洒落なお店でこれまた若者の心をわしづかみに。
当時の沖縄にはまだほとんどなかった会員カードを導入、様々な特典をつけた。
H2Oのカードを持つのが若者のステータスになった。
「当時の僕はたまたま沖縄に住んでいるだけの宇宙人(笑)って思っていました。
アイデアが次から次へと浮かんでどんどん実行していました。
コザに出てきたのは、僕はコザが大好きだったから。遊ぶのなら絶対コザ!
だからコザで商売したかったんです。」と話す。
そんな隼人さんが中の町・信金通りに「酔ing」を構えたのは四年前。
以前から夢だった、自分で演奏でき、
お客さんとゆっくり話す空間を作りたかったためだ。
ギターを手に毎晩大好きなフォークを熱唱している。
「人と話すのが大好きですね。この商売をずっと続けていたので、
人間の喜怒哀楽を間近で見てきました。
落ち込んでいるお客さんがいたら励ましたいし、
すべてのお客さんにエールを送りたい」と話す。とにかく人間が大好きなのだ。
そんな隼人さん、一年前から本格的に詩画書を始めた。
詩と絵と書が一体となったものだ。隼人さんの詩画書は
今店内の壁いっぱいに飾られている。
どれも心に小さな灯がともるような「人生の応援歌」のような言葉と絵。
実はこの詩画書、中の町の数多く(ほとんどかも)の店舗に飾られている。
酔ingで心にしみる歌声を聞いてもらうのももちろんお薦めだが、
宇宙人から人間に戻った隼人さんの
隠れた名言・名画を求めて中の町を彷徨うのもこれまた一興だ
2007年10月13日
マスター波瀾万丈 vol.3
(「中の町の中・9月号」より)
ライブハウス ジャンバラヤ
ジャンバラヤのマスター
「目標は古希まで歌い続けること」

ビールのネオンライトが輝き
Aサインバーの面影を色濃く残す店内。
5人編成の生バンドの演奏が始まり
マスターがマイクを握った瞬間、
客席は一気にジャンバラヤワールドに突入。
お客さんは大いに盛り上がり、
フロアでは踊り出す人も。
平日にも関わらず客席は満席。
土日になれば入場するのも困難な状態になるという。
タンバリンを叩きながら踏むステップの軽快さが小気味よい。
スリムなその容姿からはとても
マスターが58歳とは想像が出来ない。
マスターは18歳の頃からずっとバンドマンとして活動、
波の上、コザ、金武、辺野古等のライブハウスで歌い続けてきた。
「昔は歌うために働いていた。10日のうち9日は大工の仕事を。
残りの1日は好きな歌を。細々と食いつなぎながら
大好きな音楽を続けてきました。」とマスター。
音楽から離れることなんて考えられなかった。
そして12年前の11月、
ついに念願のライブハウスを現在の場所にオープンさせる。
「ライブハウスで飯を食えるのは奇跡みたいなもの。
他の仕事をせずに大好きな歌を毎日歌えて、
従業員にもバンドマンにもペイできて、
更に自分にもわずかばかりのものが残る。
こんなすごいことはない。
大金は儲けてないから、
僕はいわば『低レベルな大器晩成型』だと思います。」とニコニコと話す。
店のオープンは深夜十二時から。
四十五分の演奏と十五分の休憩を交えて五回のステージをこなす。
ステージの間、音楽はノンストップ。
誰もが知っているポップス、ジャズ、ロック、歌謡曲など
あらゆるジャンルの名曲が次々と演奏され、
お客さんのハートをわしづかみする。
かけねなしで楽しむことが出来るお店だ。
「以前は俺の歌を聴け!って感じだったけど
今は聞いてくれて本当にありがとうっていう感じ。
自分の歌を聞いてくれるお客さんを心から愛おしく思います」と言う通り、
曲の合間には『愛してるよ』『好きです』という言葉が自然にこぼれ出る。
マスターはFMコザ木曜日夜7時の
「ジャンバラヤの皆さんのおかげです」という番組で
パーソナリティをつとめている。
ジャンバラヤの井戸端会議が話題のメイン。
密かにディープなこの番組、
マスターオリジナルの「Aサインブルース」も流れるので要チェックだ。
「今の目標は古希まで歌い続けること」とマスター、
「幸せな人生だと思います。毎日が青春ですから」と話す。
古希といわず米寿まで、
いや、白寿まででも現役ミュージシャンでいてください。
ライブハウス ジャンバラヤ
ジャンバラヤのマスター
「目標は古希まで歌い続けること」

ビールのネオンライトが輝き
Aサインバーの面影を色濃く残す店内。
5人編成の生バンドの演奏が始まり
マスターがマイクを握った瞬間、
客席は一気にジャンバラヤワールドに突入。
お客さんは大いに盛り上がり、
フロアでは踊り出す人も。
平日にも関わらず客席は満席。
土日になれば入場するのも困難な状態になるという。
タンバリンを叩きながら踏むステップの軽快さが小気味よい。
スリムなその容姿からはとても
マスターが58歳とは想像が出来ない。
マスターは18歳の頃からずっとバンドマンとして活動、
波の上、コザ、金武、辺野古等のライブハウスで歌い続けてきた。
「昔は歌うために働いていた。10日のうち9日は大工の仕事を。
残りの1日は好きな歌を。細々と食いつなぎながら
大好きな音楽を続けてきました。」とマスター。
音楽から離れることなんて考えられなかった。
そして12年前の11月、
ついに念願のライブハウスを現在の場所にオープンさせる。
「ライブハウスで飯を食えるのは奇跡みたいなもの。
他の仕事をせずに大好きな歌を毎日歌えて、
従業員にもバンドマンにもペイできて、
更に自分にもわずかばかりのものが残る。
こんなすごいことはない。
大金は儲けてないから、
僕はいわば『低レベルな大器晩成型』だと思います。」とニコニコと話す。
店のオープンは深夜十二時から。
四十五分の演奏と十五分の休憩を交えて五回のステージをこなす。
ステージの間、音楽はノンストップ。
誰もが知っているポップス、ジャズ、ロック、歌謡曲など
あらゆるジャンルの名曲が次々と演奏され、
お客さんのハートをわしづかみする。
かけねなしで楽しむことが出来るお店だ。
「以前は俺の歌を聴け!って感じだったけど
今は聞いてくれて本当にありがとうっていう感じ。
自分の歌を聞いてくれるお客さんを心から愛おしく思います」と言う通り、
曲の合間には『愛してるよ』『好きです』という言葉が自然にこぼれ出る。
マスターはFMコザ木曜日夜7時の
「ジャンバラヤの皆さんのおかげです」という番組で
パーソナリティをつとめている。
ジャンバラヤの井戸端会議が話題のメイン。
密かにディープなこの番組、
マスターオリジナルの「Aサインブルース」も流れるので要チェックだ。
「今の目標は古希まで歌い続けること」とマスター、
「幸せな人生だと思います。毎日が青春ですから」と話す。
古希といわず米寿まで、
いや、白寿まででも現役ミュージシャンでいてください。
2007年09月27日
マスター波瀾万丈 vol.2
(「中の町の中・8月号」より)
マスター波乱万丈 vol.2
カラオケ&ライブ 縁歌
水木 聖二さん
「最近では
多くの人に生かされていると
日々痛感しています」

水木さんは栃木県の那須連峰のすそ野、那須高原の生まれ。
以前は那須野が原と言われ野生の動物が
人間の数以上に住んでいた自然豊かな地域の出身だ。
那須工業高等学校を卒業後公務員となり、
千葉工大の二部に進学、後に中退し東宝テレビ芸術学園に通い
1970年東宝レコードの一期生としてデビューした。
本人曰く「日本で一番うまい歌手で同時に日本で一番うれない歌手でしたよ」。
沖縄には以前から来たかったという水木さん、
1975年に海洋博が開催されたとき
音響関係のオペレーターとして初来沖、
以後沖縄と本土を行き来し、1978年以降はこちらに落ち着いた。
「沖縄のこの暑い気候が気に入ってここに住むことにしました。」
以前に新宿で手相を見てもらった時に
「あなたは海外で生きていく運命です」と言われた。
ここに住むと決めた時「あの占い当たった!」と内心手を叩いたという。
沖縄に移ってからの水木さんの活躍はめざましたかった。
極東放送の「懐メロ夜行列車」のパーソナリティーをかわきりに、
「柳卓です土曜の朝は賑やかに」のレギュラー、
「カラオケチャンピオン貴方も出番」の審査員、
OTVの「水木聖二のナマカラonステージ」、
ROK「水木聖二のカラオケ教室」(他多数)など
多くの番組にレギュラー出演しながら
歌手としての充実した日々を過ごしてきた。
しかし華やかな活動の一方、
こういった番組への出演だけで生活を維持するのは難しく、
本業の歌手活動の他にクラブ、スナック、ライブハウス、居酒屋などを
経営してきたがなかなか儲からなかった。
苦しい日々もあったが、様々な変遷を経て
現在は「スナック縁歌」を経営しながら、
沖縄タイムスカルチャースクールの講師や
オリジナルレーベルのCD製作をしているという。
「物質的には豊かではないけど
たくさんの友達に恵まれ毎日を楽しく生きています。
自分一人で生きていると思っていましたが、
最近では多くの人々に支えられ
生かされているということを痛感しています」と話す。
苦労を重ねてきてたどり着いた境地だ。
マスターにお願いして歌を歌ってもらった。
艶のある伸びやかな甘い声だ。
粋なキーボードの演奏も聴き応え十分。大人の音楽だ。
お店でリクエストがあれば演奏してくださるとのこと。
本当のプロの歌が聴けるのもこの店の醍醐味。
是非カウンターでじっくり味わって聴いてほしい。
(営業時間 月~木、土曜日19時~ TEL 932-7086)
マスター波乱万丈 vol.2
カラオケ&ライブ 縁歌
水木 聖二さん
「最近では
多くの人に生かされていると
日々痛感しています」

水木さんは栃木県の那須連峰のすそ野、那須高原の生まれ。
以前は那須野が原と言われ野生の動物が
人間の数以上に住んでいた自然豊かな地域の出身だ。
那須工業高等学校を卒業後公務員となり、
千葉工大の二部に進学、後に中退し東宝テレビ芸術学園に通い
1970年東宝レコードの一期生としてデビューした。
本人曰く「日本で一番うまい歌手で同時に日本で一番うれない歌手でしたよ」。
沖縄には以前から来たかったという水木さん、
1975年に海洋博が開催されたとき
音響関係のオペレーターとして初来沖、
以後沖縄と本土を行き来し、1978年以降はこちらに落ち着いた。
「沖縄のこの暑い気候が気に入ってここに住むことにしました。」
以前に新宿で手相を見てもらった時に
「あなたは海外で生きていく運命です」と言われた。
ここに住むと決めた時「あの占い当たった!」と内心手を叩いたという。
沖縄に移ってからの水木さんの活躍はめざましたかった。
極東放送の「懐メロ夜行列車」のパーソナリティーをかわきりに、
「柳卓です土曜の朝は賑やかに」のレギュラー、
「カラオケチャンピオン貴方も出番」の審査員、
OTVの「水木聖二のナマカラonステージ」、
ROK「水木聖二のカラオケ教室」(他多数)など
多くの番組にレギュラー出演しながら
歌手としての充実した日々を過ごしてきた。
しかし華やかな活動の一方、
こういった番組への出演だけで生活を維持するのは難しく、
本業の歌手活動の他にクラブ、スナック、ライブハウス、居酒屋などを
経営してきたがなかなか儲からなかった。
苦しい日々もあったが、様々な変遷を経て
現在は「スナック縁歌」を経営しながら、
沖縄タイムスカルチャースクールの講師や
オリジナルレーベルのCD製作をしているという。
「物質的には豊かではないけど
たくさんの友達に恵まれ毎日を楽しく生きています。
自分一人で生きていると思っていましたが、
最近では多くの人々に支えられ
生かされているということを痛感しています」と話す。
苦労を重ねてきてたどり着いた境地だ。
マスターにお願いして歌を歌ってもらった。
艶のある伸びやかな甘い声だ。
粋なキーボードの演奏も聴き応え十分。大人の音楽だ。
お店でリクエストがあれば演奏してくださるとのこと。
本当のプロの歌が聴けるのもこの店の醍醐味。
是非カウンターでじっくり味わって聴いてほしい。
(営業時間 月~木、土曜日19時~ TEL 932-7086)
2007年09月12日
マスター波瀾万丈 vol.1
マスター波乱万丈
キッチン佐世保のマスター
中島 一敏さん(60)
マスター、美味しいね
といわれるのが何よりもうれしい
中島さんは長崎県佐世保の出身。店の名前は出身地に由来する。
若い頃は才能溢れる画学生。名門・武蔵野美術大学を卒業後
その画力を活かし、造船所の設計技師として十年勤務、
その後電源開発に移りオペレーターを二十年勤めた。
人生の転機になったのは昭和六十二年の沖縄転勤。
そこで中島さんは運命の人と出会う。
中の町で店をやっていた「早苗」のママ、末子さんだ。
ママに一目ぼれした中島さんは、ひたすら店に通い続けた。
「彼女の肝っ玉母ちゃんぶりに惚れました。
話がしたい一心であの頃で毎月四十万円くらい使ったかなぁ」と
少し照れくさそうに当時を振り返る。
しかし、そんな心弾む日々も長くは続かなかった。
六年の沖縄勤務が終了して広島に転勤になってしまったのだ。
転勤と同時に中島さんは転勤先の閉鎖的な空気に
すっかり滅入ってしまう。
思い出すのは楽しかった沖縄での日々。
中島さんは末子さんに電話をした。
すると末子さんは「悩んでいてもしょうがないから今のうちに
こっちに来て本当の友達を作ったら?
老後のこととか考えたら絶対そうした方がいいって」。
この一言で中島さんの心は固まった。
荷物をまとめて沖縄に着いた中島さんは度肝を抜かれる。
なんと末子さんは中島さんのために
新しい店とスタッフを用意していたのだ。
「一日も遊ぶ暇なんてなかったですよ。着いたその日から
もうマスターとして働いていました。僕にちゃんと仕事をさせて
一国一城の主としてプライドをもって生活してもらいたい、
という彼女の心遣いだったんです。嬉しかったですね」。
こうして、中島さんの沖縄でのマスター生活がスタートした。
スナックの他にもレストラン経営をするなど、
沖縄に来てからの中島さんの日常は多忙を極めた。
しかし末子さんと生活の時間帯がすれ違うのを避けるため
「佐世保」は現在の営業時間帯を選び、一人で営業することができ、
尚かつ元々好きだった料理を提供する「キッチン」という
現在の形に落ち着いた。
「佐世保」で楽しんでいただきたいのはやはり自慢の手料理。
その腕前は本格的。沖縄料理を中心としたメニューも豊富だ。
沖縄料理以外にもソーキのトマト煮や和風ステーキなど
オリジナルの創作料理も美味しいと評判が高い。
「根が凝り性なんで、美味しい物を作りたい一心で
採算は度外視しているもんだから家内からはあきれられています。
でも『マスター美味しいね』の一言が嬉しいから
つい頑張っちゃう(笑)」と目を細めた。
「これまでいろんなことを経験してきたけど、
ここに来て本当に良かった。
収入はサラリーマン時代の十分の一くらいまで減ったけど
楽しいことばかりです。友達もたくさんできたし。
何といっても素敵な奥さんが傍にいて今では孫も六人いる。
大事なものをここでたくさんもらいました。とても充実していますよ」
と話す中島さん、もうしっかりとこの地に根を下ろしているようだ。
今宵は中島さんとおしゃべりを楽しみながら、
心づくしの手料理で胃袋を満たしてみるというのはどうだろうか。
きっと優しい気持ちで中の町の夜を締めくくることができるはず。

▲キッチン佐世保 中島一敏さん
※とてもあたたかい人柄のマスターです。
おそばとか中身汁も美味しいです。
この店でWaiwai MOD‘Sのマスターと
中島さんと町子の三人のおしゃべりから
「中の町の中」がスタートしました。
このコーナーは読者が一番楽しみに
しているコンテンツでもあります^^
キッチン佐世保のマスター
中島 一敏さん(60)
マスター、美味しいね
といわれるのが何よりもうれしい
中島さんは長崎県佐世保の出身。店の名前は出身地に由来する。
若い頃は才能溢れる画学生。名門・武蔵野美術大学を卒業後
その画力を活かし、造船所の設計技師として十年勤務、
その後電源開発に移りオペレーターを二十年勤めた。
人生の転機になったのは昭和六十二年の沖縄転勤。
そこで中島さんは運命の人と出会う。
中の町で店をやっていた「早苗」のママ、末子さんだ。
ママに一目ぼれした中島さんは、ひたすら店に通い続けた。
「彼女の肝っ玉母ちゃんぶりに惚れました。
話がしたい一心であの頃で毎月四十万円くらい使ったかなぁ」と
少し照れくさそうに当時を振り返る。
しかし、そんな心弾む日々も長くは続かなかった。
六年の沖縄勤務が終了して広島に転勤になってしまったのだ。
転勤と同時に中島さんは転勤先の閉鎖的な空気に
すっかり滅入ってしまう。
思い出すのは楽しかった沖縄での日々。
中島さんは末子さんに電話をした。
すると末子さんは「悩んでいてもしょうがないから今のうちに
こっちに来て本当の友達を作ったら?
老後のこととか考えたら絶対そうした方がいいって」。
この一言で中島さんの心は固まった。
荷物をまとめて沖縄に着いた中島さんは度肝を抜かれる。
なんと末子さんは中島さんのために
新しい店とスタッフを用意していたのだ。
「一日も遊ぶ暇なんてなかったですよ。着いたその日から
もうマスターとして働いていました。僕にちゃんと仕事をさせて
一国一城の主としてプライドをもって生活してもらいたい、
という彼女の心遣いだったんです。嬉しかったですね」。
こうして、中島さんの沖縄でのマスター生活がスタートした。
スナックの他にもレストラン経営をするなど、
沖縄に来てからの中島さんの日常は多忙を極めた。
しかし末子さんと生活の時間帯がすれ違うのを避けるため
「佐世保」は現在の営業時間帯を選び、一人で営業することができ、
尚かつ元々好きだった料理を提供する「キッチン」という
現在の形に落ち着いた。
「佐世保」で楽しんでいただきたいのはやはり自慢の手料理。
その腕前は本格的。沖縄料理を中心としたメニューも豊富だ。
沖縄料理以外にもソーキのトマト煮や和風ステーキなど
オリジナルの創作料理も美味しいと評判が高い。
「根が凝り性なんで、美味しい物を作りたい一心で
採算は度外視しているもんだから家内からはあきれられています。
でも『マスター美味しいね』の一言が嬉しいから
つい頑張っちゃう(笑)」と目を細めた。
「これまでいろんなことを経験してきたけど、
ここに来て本当に良かった。
収入はサラリーマン時代の十分の一くらいまで減ったけど
楽しいことばかりです。友達もたくさんできたし。
何といっても素敵な奥さんが傍にいて今では孫も六人いる。
大事なものをここでたくさんもらいました。とても充実していますよ」
と話す中島さん、もうしっかりとこの地に根を下ろしているようだ。
今宵は中島さんとおしゃべりを楽しみながら、
心づくしの手料理で胃袋を満たしてみるというのはどうだろうか。
きっと優しい気持ちで中の町の夜を締めくくることができるはず。

▲キッチン佐世保 中島一敏さん
※とてもあたたかい人柄のマスターです。
おそばとか中身汁も美味しいです。
この店でWaiwai MOD‘Sのマスターと
中島さんと町子の三人のおしゃべりから
「中の町の中」がスタートしました。
このコーナーは読者が一番楽しみに
しているコンテンツでもあります^^

